なさぬ堪忍、するが堪忍

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さて、この前の練習にて、門下同士でちょっとしたトラブルがありました。勿論、両者に悪意はなく、幼さから来る言葉の掛け違いでした。トラブル自体は、たいした問題ではないのですが、よい成長の機会だ!と子供達に「なさぬ堪忍、するが堪忍」の話をしました。日本人は、長らく「我慢」に美徳を感じてたし、我慢は、長生きの秘訣とさえ考えてました。我慢を生きるためのツールとして、我慢することで、他者とのコミュニケーションを図ってきた、そんな民族です。必要な我慢も不必要な我慢もひっくるめて、それが一番大事と学び、教えました。全柔連のトラブルを見て、色々考えさせられますし、反省もします。母は、子に野菜スープを作り、子は、えずきながらも残さず我慢して食べる。先生は、生徒に課題を与えて家に帰し、生徒は、嫌々ながらも我慢して机に向かいます。師は、弟子に後1分、後一回と特訓します。弟子は、息を切らしながら我慢してノルマを達成します。愛の上に構築されている我慢の機会は、我慢する自身を鍛えます。一方的な信頼関係では、愛の上に構築された我慢を強いることは出来なかったのでしょう。我慢することも我慢させることも、そこに師弟関係があれば、尚のこと必要です。勿論これは、体罰とか暴力とかの低レベルの話ではありません。

今吹衆で起こったトラブルは、そこにちょっとでも我慢があれば、起きなかったトラブルでした。当事者双方ともです。おもしろいこと思いついた、だからさっさと口にしてしまう子、腹立った、だからさっさと手を上げてしまう子。どっちもに愛の上に構築された我慢があれば、トラブルは起きなかったというわけです。しかしこれは、子供同士なら、あってしかるべきトラブルでもあります。だからチャンスと思い、全員に話をしたわけです。・・・こんな感じでした!

では、頭領から今吹衆に質問、

「日本刀を持って歩くことを許され、無礼打ちの特権も与えられたサムライたちは、腹立ったからって人を切りまくったと思うか」だれも返事がない。ふっ、緊張して俺の話を聞いてるな、お前ら、まずはよし!

「サムライ達は、我慢を美徳として簡単に刀を抜かなかったんだ。分かるか、これが、ならぬ堪忍、するが堪忍よ!」

「先生、なんてぇ~?ならぬカンニング、するなカンニング・・・?」

「あっ、あっ、あほか、お前ら!・・・あのね、ならぬ堪忍、するが堪忍というのはやなぁ・・・」、頭領、やっぱり決まらねぇ・・・

我慢することで、強くなったり、いい関係になったり、いい環境になることは、間違いなくある。スポーツチャンバラは、自由を大切にする。自由に甘んずるのも、我慢するのも今吹衆が選ぶこと、頭領は約束する。愛の上に構築されない我慢は、絶対にさせない。だから今吹衆は、選ぶなら、安心して我慢を選べ!お母さんの野菜スープも、先生の宿題も師匠の特訓も選んでほしい。そして、今吹衆にも愛の上に構築された我慢をさせることが出来る大人になってほしい。それを目指していれば、きっとトラブルはなくなる。仲良くしような。今吹衆!

そして、もし、今吹衆、どう考えても意味の分からない我慢をした日は、その我慢を家でしっかり話せ!、んで、頭領にも話してくれ。一緒に考えようぜ。その我慢の値打ちを!考えても考えてもワケの分からん我慢ならば、たぶん、それは何の役にも立たないものだ。道に落ちてる軍手の方が役に立つってモンよ。するな、そんな我慢!必要ない!そんな我慢なら意味はない!我慢も選べるぜ、今吹衆。

とにかく、今吹衆!この道場でトラブルは無しな。

 

 

2013年2月8日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : humishiotakashima