二〇代の中頃、その技の一つ一つの合理性に魅せられて、少林寺拳法を懸命に学んでいた時期がありました。体は、まだまだガンガンに力でぶつかり合うことに何ら抵抗なかった時代で、そして、まだまだ人々からは、ハナタレよ、若造よ、と言われながらも、社会的には、そろそろ責任を持たされ始めるお年頃、そんなときに出会った少林寺拳法の先生から教えていただいた言葉が力愛不二(りきあいふに)でした。「愛のない力は暴力なり、力のない愛は無力なり、」と・・・。 この言葉に甚く感銘を受けました。私は、当時、老獪な上司に護られているのをいいことに、のべつ幕なく かみつく、ヒーロー気取りの青二才でした。このやっかいな青二才の思考の根底には、「幼い頃から武道を学んできた俺は、タイマンならだれにも負けない」、という根拠のない自意識からくる驕りがドロドロととぐろを巻いておりました。少林寺拳法の師は、この言葉と一緒に、合理的な技を駆使して、大物ぶる20代の青二才の鼻は大して高くないことも併せて、教えてくれました。ここにもお宝があったぞ、と思った瞬間でした。・・・ので、その後、今に至るまで力愛不二の精神は、自戒の言葉とし、今吹衆の子供達にも伝えています。武道を志す者の座右の銘にすべき言葉です。
さて、その後、真実のほどは分かりませんが、お釈迦さんも武術をたしなんでおられたのではないか、という話を先輩から聞きました。先輩が言うには、無法の時代に愛を説く宗教家が武術の一つもできないほうが不思議だと思わんか、そんな事したら三日と持たないという前ふりの後、アングリマーラーさんとお釈迦さんが出会ったときの話を教えてくれました。その話の中身は後で触れますね。
その話を聞いて、あぁ、だから力愛不二か、関心すると同時にクリスチャンの私もちょっと合点のいくところが合って、聖書の中に、イエスさんも大勢に人に囲まれた時にするりとその場からいなくなる記述が割とあるんです。聖書だからサラサラっと書いているんですが、ある時は石を持った敵であったり、熱狂した群衆であったり、相当怖い状況でないかと思うんですが、神の子だから、っといってしまうとサラサラもおもしろくなくて、イエスさんは、武術家だったと言わないまでも身体能力が高かったのかと思ってみたり、弟子達にはアウトローも多く、イエスさんってお方、むしろそんな人達に愛を説いたみたいですけど・・・。このやんちゃくれの弟子達が、相当にけんか慣れしてたんじゃないかと思うシーンもいくつかあって、ヨハネの福音書なんですが、イエスさんが、いよいよ捕らえられるとき、一番弟子のペトロさんが剣を抜いて大祭司のしもべのマルコスさんの耳を切り落とした記述があるんです。さぁ,チャンバラーにも武道家さんにも得物系武術の先生にも伺います。長剣あるいは刀剣抜いて耳だけ切り落とすことができますか?間違いなく素人には、無理ですよね。肩まで切るか、顔面ごと切っちまうか、流浪に剣心か、おまえわ!と言いたくなる剣技です。ペトロさんはもともと漁師さんでした。どだい、剣技を学べる時代でも地域でもなかったはず、では、聖書は、嘘を書くのか、いいえ、聖書は嘘を書かないし、ペトロさんに耳を切り落とす剣技はありません。では、何が真実?我々は、「剣を抜く」、という言葉に長い剣を振り回すペトロさんを想像していますが、たぶんペトロさんは懐にナイフを忍ばせて、いざっと言うときは、これで我が師をお守りするっと構えていたんでしょう。ここからは、想像の世界ですが、人を捕らえに来た者が、武器を持ってる相手がそこにいたら、身構えるでしょう。なのにあろう事か、マルコスさんは、耳を切り落とされた。たぶん、ペトロさんは、ぎりぎりまで待って、懐のナイフを抜かずに、一番近くにいたマルコスさんにヘッドロックかまして、耳をそぎ落としたんじゃないですか、これって、ケンカです。武道のブの字も見当たらない、美しさに欠けるケンカ殺法です。耳をそぐとか、親指を断つとか、太ももを突くとか、死なせはしないけど、相手の戦意も動きも維持させない、武道家の妙技に引けを取らないケンカ屋のやり方です。でも、イエスさん、この後、マルコスさんの耳を拾って、元通りに治してから、ペトロさんを戒めるんです。そして無抵抗で縛に就く。これが神の杯なれば、飲まぬわけにいかぬと。正に力愛不二に併せて、見事な覚悟。イエスさんの場合は、弟子達が、相当頼もしかったように思います。時々やり過ぎて、イエスさんに怒られる荒くれ弟子達が、また、人間くさくって、たまらなくいいんです。この辺り、興味あれば、近くの教会の神父さんに聞いてみてください。イエスさんの弟子ってヤバかったんでしょう?ねぇねぇ、教えてくださいよって。でも、ヤバいのはお前じゃ!っと言われない程度で、お願いしますよ。
今吹衆!、正義を語るにも愛を実戦するにも力は必要なんだ。それは、あるとき、君らの自信となり、支えとなる。だからもっと強くなれ!だけど、力だけは、むしろ邪魔になる。強いだけならば、今吹衆を名乗ることに意味はない。愛がなければ強さに意味なんかないんだ。力愛不二の精神よ、しっかり心に刻んでおけ!
岩山に背を向けず、花は、一輪も散らさない
強きを求めて優しさを知る!我ら、風の今吹衆