前に力愛不二の話をしました。「愛のない力は、暴力」「力のない愛は、無力」の話です。同じテーマになるんですが、今回の話は、聖書から話します。ルカさんの福音書です。イエスさんと弟子たちが、イエスさんが捕まる前の晩、夕食をとってました。ご存知最後の晩餐です。それは、カトリックでは、非常に意味のある晩ご飯でした。ご聖体を制定されたのがこの時です。弟子たちは、イエスさんの話を聞いて、裏切り者を詮索したり、誰が一番偉いか言い争ったり、一番弟子のペトロさんが、イエスさんから、師の否認を予告されたのもこの時でした。・・・ので、こうやって見ると最後の晩餐は、意外と盛り上がってたのかも知れません。これから何が起こるかをご存知だったイエスさんは、ちょっぴり、気が紛れる瞬間だったのかもなぁ。さては、そんな最後の晩餐での話・・・。
イエスさんが、晩餐の後、12人の弟子たちに「私が、財布も袋も持たさんと君らを派遣した時に、君ら、なんか不自由したんかいな?」と言い出し、12人の弟子は、答えます。「先生、そんなこと、全然ありませんでしたで。」その返事を聞いて、イエスさんは、言います。「そやけどな、これからは、財布は、しっかり持っときや、カバンも要るで、そやそや、刀もいるんやで、刀持ってへんかったら、上着を売り飛ばしてでも刀、買いや。ゆうとっけどな、『あいつは、悪いヤツの一人に数えられたんや』って、もう書かれとんねん。そやから、そないにならなあかんねやわ」。すると弟子の一人が答えます。「先生、見ておくれやっしゃ!ここに剣が二本おまっさかい。」それを聞いたイエスさん、「・・・ほな、もうええわ。」と言われました。
分かりますか、かつて、「右のほほを打つ者に左のほほを向けよ」とおっしゃったイエスさんの言葉とは思えない言い回しに弟子達は、ちょっと困惑したんだと思います。「先生!刀は、二本もありまっせ。」という答えに「もうええわ」と言われたイエスさんに「おまえらなぁ、ちゃうやんか、そんなんゆうとんちゃうねん。」っと言いたげなイエスさんの姿が、頭領には見えるようです。この後、イエスさんは、オリーブ山に行って、血反吐が出るほど父なる神に祈り、もだえ苦しみ、逮捕され、十字架に掛けられます。頭領は、こう思うんです。イエスさんは、公生活をともに過ごした弟子達の身を案じたのではないでしょうか。この場面で頭領は、力じゃない、人を愛することを第一に考えなさいと言い続けたイエスさんが、自らの残酷な死を目前にして、かわいい弟子達が心配で心配で仕方なかったんでしょう。私には、もうお前達を守ってあげる時間がない。私の嫌いな剣を持ってもいい。金ももっていいんだ、食べ物もたくさん持って、とにかく自分の身を護りなさい。そう言いたくて、上述のように言ったのに、師の心弟子知らずです。「先生の大嫌いな剣が実は、ここにありまんがな、しかも一本ちゃいまっせ、二本でっせ!」という弟子の答えを聞いて、メンバーは、12人も居るのにたったの二本、なんじゃそりゃぁ、しかも、ここに刀があるかどうかは、どうでもいい、何が何でも自分の身を護ってほしいのにお前達に言っても無駄なのか・・・。
そこで、頭領はもう一度、聞きます、イエスさんの返事が「もうええわ」って返事の理由、分かりますか。
もう一つ、平和について、話変わって、いよいよ徳川幕府が終わりを告げようとしていたその時、その返事を待つ龍馬さんが、「慶喜さんも大政の返上は、難しいことじゃけえ、7・8歩まで来た頃合で、その様子によっては、最後は、大砲ぶっ放して、当てはせんけど、煽ったることもしかたないきにぃ」と言ったとか言わないとか。あれだけ平和主義者の鏡のようにドラマや映画で描かれる龍馬さん、慶喜公が大政の返上に躊躇したり、じゃまが入ったら、武力行使を考えていた、と言う話です。平和を築くには、時に刀も大砲も必要なのでしょう。いいや、武器が必要かどうかは、頭領には、答えが出ませんが、いざというとき、それを手に取る度胸がなくては、たぶん虐げられる存在になってしまう気がします。武器は必要ないかも知れない、それは、イエスさんのかわいい弟子達が、その後、剣を手に取ることは、ただの一度もありませんでした。龍馬さんも一発の大砲もぶっ放すことはなかったんです。
さて、平和って、本当に優しさだけで生まれるんでしょうか。平和を築く強さは、武器を取ることのできる心の強さから生まれ、でも間違いなく、武器を取った手からは、平和は生まれません。そのことを教えてくれる、この二つの話は、頭領にとって大切なシーンです。
さぁ、今吹衆は、エアー剣使って、そのことを学びなさい。