強さを求めて優しきを知る

このエントリーをはてなブックマークに追加

ここでいう「優しき」とは、「情け」です。そうそう、寝る前に強めのお酒を口に含む程度、胃袋に飲み落として、体が熱くなるのを感じながら眠りにつくとぐっすり眠れて、・・・それは、ネザケね・・・。そうではなくて、「情け」です。まったく、飲むことばっかり・・・。

さて、誠の優しさを教えるのも身につけるのも、本当に難しいことです。今吹八風に、「強さを求めて優しきを知る」と歌い込んだのは、この「難しさ」を意味しています。優しくせい、情け深くせんかい、なんと簡単に言える言葉でしょう。優しいだけでいいならば、それも簡単です。何を見ても、何をされても、逆らわず、ニコニコ受け入れればいい。でも、それを、人は、「優しき」と言わない、人は、そうする人を「愚か」と言うでしょう。誠のなき優しさは、道に落ちてるゴム手袋に同じ。しかも、優しくします、情け深くします、そう言うことも、また、そう見せることも、難しくはない。優しいだけでない「情け」には、浅い深いの調整も必要なんです。独眼竜伊達政宗の遺訓ですが、「仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる、礼に過ぎればへつらいとなる、智に過ぎれば嘘をつく、信に過ぎれば損をする」、儒教を重んじた時代に五常をからかったような言葉を遺訓にするあたり、これぞ、伊達男の由来、独眼竜は、やはり、かぶき者です。とはいえ、一国一城の主の遺訓であれば、今吹衆も耳を傾ける値打ちのある言葉だと思います。「浅きも深きも過ぎるなよ」ってことでしょうが、普段から食べ過ぎを指摘される頭領にも、何事でも過ぎてはいけないことぐらい分かってます。

「仁に過ぎれば弱くなる」、これに注目します。優しすぎては、弱くなるんです。右のほほ、打たれたら、左のほほ向けるようにいわれる代々のカトリッカーのお家に育った頭領は、幼い頃から、キリスト教の言う無限の隣人愛は、よいものであるとは感じながら、少々の疑問も持ちました。武道を学ぶ度に強さに裏付けされた優しさに出会い、そこから、離れられなくなったんです。これがお宝で、それを子供達に教えたい、そして、これが、スポチャン道場やってる所以です。

・・・ので、剣道の先生が、子供を足蹴にする映像は、これ以上にないショックでした。ばかな・・・。まさか・・・。言葉が出ません。日本代表の柔道の監督が、相手は子供ではないとはいえ、選手を突き飛ばす映像も、ショックでしたし、あげく団体のコソ泥まがいの横領ニュースも、もう聞くに堪えない。ちょっと前の時津風部屋の事件も・・・、なんかおかしい。頭領は、これのどれとも関係は、ないけど、なんだか、門下の子供達に謝りたくなる。日本武道は、こんなもんじゃないんだ・・・。

やぁ!今吹衆よ、日本武道は、すばらしいものなんだ、俺たちチャンバラーは、大和の魂を教科書としよう。いま日本武道は、なんか狂ってるけど、すぐに完璧に浄化されるに決まってる。このままのはずがないんだ、大和の魂を正当に継承する日本の武道界なんだから!頭領は、そう信じています。

ともかく、今吹衆よ!誠を大切にし、恐れるべきをおそれ、それを男らしい、女らしいと感じて、それをかっこいいと考えて、その強い地盤の上で、本当の情けを実戦する、必要なときに必要な情けを受けた者がその情けを「仁」と呼ぶ。強い地盤がなくては、「情け」は、理解できないし、ましてや、自分のものでない、必要なときに必要な「情け」=「仁」の理解は、もっと難しい!分かるか、今吹衆!

さあ、「強き」を求めないと本当の「情け」は理解できない。なのに、ここの頭領ときたら、強さを与えることが出来ない、だって、頭領が強くないんですもの・・・。強さも情けも説明されたって、理解できるもんじゃない。これは、学ぼうとするな、求めろ、強さも情けも学べるもんじゃない、そして感じろ、自身が強くなったと感じ、優しくなったと感じた時、「仁」を悟るはず、今吹衆!それ以外に「仁」を理解する方法がない。歩みて倦まず!日々鍛錬よ。

今吹衆が優秀であることを願うと同時に日本武道が浄化され、再び武士道に立ち返ることを願ってやまない頭領である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年3月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : humishiotakashima