大きいことをしようとして、力を与えてほしいと神様に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと「弱さ」を頂いた。
より偉大なことができるように、健康を求めたのに、
より良いことができるようにと「病弱」を頂いた。
幸せになろうとして、富を求めたのに、
賢くあるようにと「貧しさ」を頂いた。
世の人々に誉められようとして、権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと「弱さ」を授かった。
人生を楽しもうと、あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと「命」を頂いた。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神様の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。
ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれている「病者の祈り(作者不詳)」
この祈りと頭領が出会ったのは、頭領がまだ学生の時でした。カトリックの教会の男の子ばかりの集会で、ある神父さんから皆に手渡されたプリントに描かれていました。当時、健康優良児の名を欲しいままにしていた頭領は、はじめ、この詩(祈り?)は、ただの強がりで、負け惜しみだなっと思っていました。俺は、祈らずとも強靱な体力でも揺るぎない権力でもたっぷりの財力でも欲しい物は絶対に手に入れてやるっと鼻息を荒くしていた少年時代・・・、かわいかったな・・・。さて、今、酸いも甘いも噛み分けた大人になって、神様から、大きな肩書きをいただいて、この祈りの本当の意味を悟りました。また、負け惜しみだと思っていた自分の素直さも理解しました。神様は、きっといたずら好きなお方だと思います。頭領ん家は、一度分解したことがあって、生まれるはずのなかった末の娘の手をやさしい妻と引きながら、聖家族像(ヨセフ様とマリア様とイエズス様の像、カトリック今福教会の庭にあります)の前を通って職場に向かってたときにそう思ってました。無かったはずの家族に見習えと言わんばかりの聖家族、これは、神様の教えなのか、はたまた、いたずらなのか、神様に聞いてみたいと思いながらの通勤タイムでした。神様のいたずらは、他にもありました。、若い頭領は、何でも自分の力で手に入れてやるっといいながら、十代の後半に真剣に神様に祈り願っていたことがありました。当時は、柔道と空手を交互に毎日修行していて、神様!俺に、あと10㎝の身長をください。それに20㎏体重をください。どうか神様!ってね。それは、それは、毎日毎日真剣に祈りました。すると神様は、それから30年経って願いを叶えて下さいました。180㎝近い身長と100㎏近い体です。ただ・・・、神様は、頭領でなく頭領の長男にそれを与えてしまったのです。何の間違いでしょうか・・・。頭領にあと10㎝の身長と20㎏の体重があれば、世界一を取りに行くのにっと思っていた、その全てを息子は持っている・・・、息子は、武道のブの字も興味無く、チャンバラばっかしやってます。チャンバラに体重はいらねぇよ!しかしヤツは、自分の巨体をフル活用して、なかなかの腕前ではあります。・・・神様は、いたずら好きなんです、きっと・・・。壁にこの祈りを刻んだ方も神様のユーモアもいたずら好きなことも知っておられたと思います。ま、人生おもしろい方がいいに決まってる。神様が楽しませてくれる。そうそう、神様が頭領にくれた大きな肩書きですが、何だと思います?何を隠そう、「障害者」です。負け惜しみだろって思われた方は、きっと素直な方なんだと思います。少年時代の頭領のようにね!この肩書きは、本当におっきいんです。部長や専務どころじゃない。お分かりの方には、お分かりだと思います。それでいいんです。ではもう一度、健康優良児さんも部長も専務も、大きな肩書きを持つ仲間達も、もう一度ゆっくり「病者の祈り」を味わってみましょう!