レット イット ビーにケ・セラ・セラ、果報は寝て待ていうし、ケンチャナにモーマンタイ! 勝手な解釈ですが、どれもこれも、焦るな、焦るな、まずは、ゆっくり茶でも飲んで、受け止めようぜって事ではないですか?
なるようになるわいな、静かに待ってろや、よい結果がでればラッキーやし、ダメな結果なら、それから考えようぜってポジティブな考え方は、世界の人が理解する。「待てば海路の日和あり」、「人間万事塞翁が馬」です。でも、ただ待つのって、頭領は、ちょっと苦手でした。とにかく若い頃の頭領は、待つのが嫌いでした。こんな無駄な時間が世の中にあっていいのかって、何かを待つ時、いつもそう思ってました。だから、前の話ですが、野球の打順が嫌いで、野球が出来ませんでした。 でも、この体になってから待てるようになりました。こんな経験してからです。
それは、脳内出血発病後、退院して初めて教会にいったときのこと、勿論、半身麻痺で車いすに乗ってました。その教会には、エレベーターがあって、苦労すること無く聖堂に入ることが出来ました。車いすだったので、一番後ろの席の後ろに着きました。久しぶりの御ミサは、それなりに感慨深いものがあって、終盤に近づいてきました。御ミサには、聖体拝領と言われる儀式があって、カズラ(祭服)を着た神父さんから、ご聖体をいただくのですが、ふと見ると通路が狭すぎて車いすでは、祭壇に近づけない、ベンチの背もたれを手すりにして歩いて行くか、いや、ご聖体を拝領した信者さんが帰ってくる、この人達をよける能力はない、ならば、通路ではないが、壁沿いに進んでいこうか、いや、これもだめだ、みんなカバンを置いてる・・・。万策尽きた、聖体拝領の列も無くなりそうだ、あきらめるか、でもここまで来たんだ、なんとしても御聖体を受けたい、子犬でさえ、落ちたパンくずをいただけるというのに、今の自分には、その資格さえないんだろうかと思い始めていました。どれだけ考えても祭壇に近づく方法が見えてこない、聖体拝領をあきらめかけたその時、席に戻った神父さんに耳打ちする教会役員さんが一人・・・。小さくうなずいたポルトガル人のヌノという名の神父さんがカズラを颯爽と翻して大股で、こっちに近づいてきて、こう言うんです、「これがキリストの体です」心の中で(勿論、知ってますとも!それをいただきたくてこんな体でここに来たんです)と思いながら、目からは涙が、口からは、「アーメン」という言葉がでていました。御聖体をいただいた後も涙が止まりませんでした。愚かな障害者は、何もせずキリストがくるのをただ待っていればよかったんです。このとき頭に浮かんできた言葉が「下手の考え休むに似たり」でした。また大股で祭壇に戻るヌノ神父さんの背中を見送りながら、僕に気がついてくれた教会役員さんにも感謝しながら、もう自分は、誰かに頼らないと生きていけない体になったんだ、それは、人であれ、神であれ、その誰かが手を差し伸べてくれるの待たねばと思うと同時に、何でも出来た頃の自分ともちゃんとお別れをしなければ・・・。あふれてくる涙を抑えることなく、でも祭壇までのルートを一生懸命に考えた自分の滑稽さに笑みも浮かべて、偉大な者の前にあっては、頭領の浅はかな思考には、何の意味も無く、考えることより待つことの大切さを知らされた経験でした。
だから、今なら打順ちゃんと待てるんだけどなぁ。でも、やっぱ、野球は難しいなぁ。ま、今吹衆も一歩一歩前に進もうな、頭領といっても不惑にして、いまだ修行中の身なのです。一緒に修行しような、今吹衆!